昔とあるナチヲタの方にツイッターのDMで、切実な質問を送った。
「私はナチヲタですが、自分がナチヲタであることに罪悪感を抱いています。それでも私は、ユダヤ人の人に許されたいと思います。どうしたら良いですか?」
すると彼女は私の言葉と関係なさそうな文章を長々と書き連ねてきた。文面ははっきり思い出せないが、私は適当にあしらわれたような気がして辛くなった。
まあ今の私なら、昔の私の問いにこう答える。
「許されることは諦めて下さい。彼らはあなたが推している人間に人生をずたずたにされ、滅亡寸前まで行ったのです。もっと彼らに寄り添うべきです。罪悪感を抱えながら生きるのはつらいですが、つらいのはあなただけではありません。いつでも相談しに来て下さい」
ナチヲタ活動にかける情熱が大きければ大きいほど、ユダヤ人などのナチ被害者への罪悪感は増す。存在そのものを歓迎されていないかのような感覚になる。しかし、すべての人と分かり合えるわけがないのだから、諦めるしかない。罪悪感に耐えながら、彼らへの配慮を忘れず、ちゃんとゾーニングしてナチヲタ活動をすれば良い。
念の為言うが、ユダヤ人にこういうことをわざわざ語りに行くだけで暴力である。ゾーニングしろ。
相手と分かり合えないからと言って、相手を恨んだり憎んだり差別してはならない。相手は何も悪くないからだ。相手には私を拒絶する権利がある。
分かり合えない相手ともゾーニングした上で共生すれば良い。元相互フォロワーのナチヲタの方が言うように、「反ナチであること」などの分かり合える部分を共有できたらそれでいいではないか。
苦しむために生まれついたようなものだ、私は。私を拒絶する人間たちがどこまでも正しいという事実に打ちひしがれる。しかしそれでも、生きねばならない。こんな状況でグレない人は聖者だね。聖者でありたい。
昔の私からの相談に、今この言葉を付け加えよう。
「ちなみに、『ヒトラーの呪縛』(上下巻、中公文庫)という本の上巻によると、ブロンディというバンドのギタリストのクリス・ステインさんは、ユダヤ人のナチヲタだそうです。彼はナチアイテムを収集しているそうです。
そして私は発達障害者ですがヒトラーに興味のあるナチヲタです。
ナチスに殺される側の人間であっても、ナチヲタになりうるのです。
また、ユダヤ系ドイツ人の心理学者のエーリッヒ・フロムさんは、著書『愛するということ』(旧版、紀伊國屋書店刊)のなかで、こう述べています。
『本質においては、すべての人間は同一である。(略)だとしたら、誰を愛するかなどまったく問題ではないはずだ』(鈴木晶訳)
ヒトラーへの恋心に悩んでいた私は、この言葉に救われ、涙をぼろぼろこぼしました。
ユダヤ人の側からこの言葉が発せられていることに奇跡と希望を感じます。この言葉は私の大いなる慰めです。以上、お返事まで」