私は女性、発達障害者、両性愛者、犯罪性愛者だが、女性、発達障害者、両性愛者について書かれた本にはあまり興味がなく、それほど読んでこなかった。
自分が女性、発達障害者、両性愛者であることについては、当たり前過ぎて、ことさらに研究したいと思わない。
しかし、犯罪性愛者の自分語りには本当に飢えている。犯罪性愛者としての自分を語るブログをやっていたほどだ。
とある方が人伝に「菅沼さんの犯罪性愛のブログに何もいい記事がなかった」と酷評してきたのは本当に傷ついた。
犯罪性愛者の場合、そもそもの資料数がとても少なく、あったとしても偏見に満ちた物が多い。私という当事者の語りの貴重さに、その方は気づいていなかったのだろうか。
まあ犯罪性愛者にも色々いて、私と同じタイプの人ばかりではない。
自分と違うタイプの当事者の語りを読んで「何やこの人こわ〜」となることもある。
でも、いざ自分と同じ属性の人の語りに触れたら、共感の嵐である。
いつかは本格的に、自分の属性について学術的に向き合う必要があるかもしれない。
最近はアイヌについての本をいくつか読んで、アイヌの置かれている状況が発達障害者のそれに意外と似ていることに気づき、びっくりした。
アイヌも発達障害者も、「同化してほしいけどしてほしくない」というマジョリティ側からの勝手な欲望を浴びて苦しんでいる。
「日本語を話してね、でも民族衣装着て踊ってね」≒「空気読んでね、でも面白いこと言ってね」というわけ。
また、ショアについての本も結構読んできて、ナチ時代のユダヤ人が置かれていた状況にも、自分と共通したものを感じてきた。
とあるユダヤ人女性が、アウシュヴィッツ収容所内で死にたがっている同胞に「今死んだらファシストの思う壺よ!」と発破をかけるシーンでは、大いに励まされたし、生きる気力が湧いてきた。弱気になってる暇なんかないんだ。