朝鮮学校の秋祭りで日本語の歌を歌おうとした私は、在日の彼氏に「舐めるな! 朝鮮語の歌を歌え!」と糾弾されました。
私はその時、「朝鮮学校」というスペースの中の「異物」になりました。
ほのぼのした空間から容赦なく弾かれ、椅子に座り、ひとりでうなだれ、泣いていました。
群衆の中の孤独。
オオカミの群れに紛れ込んだ人間の子供のような感覚。
自分だけひとりで、周囲から針で刺されているような痛み。
他民族との交流には、こうした瞬間がつきものです。
秋晴れの空の下、私だけがまるで無人の氷原のど真ん中にいるような感覚。
私はそれに耐えきれずに、大声で叫んで、学校から逃げ出しました。
「朝鮮スペース」の中の、ひとりの「日本人」として、後ろ手を縛られ、公衆の面前に引き出される。
朝鮮人の代表に静かな声で、「あなたは日本人です。あなたは罪を犯しました。分かっていますか?」と問い詰められる。
そして私は、耐えきれずに泣き叫び、その場から脱走する。そして、「もう二度と彼らとは関わるものか」と決意する。
SNSのアイヌ活動家コミュニティの中でも、私はそのような冷気と針に囲まれている気がします。
私はとあるアイヌの方の「アイヌは見た目で差別されたから、和人と混血し、子孫に『アイヌらしくない見た目』というプレゼントを残した」という発言を見ました。
それに対して私は「この発言は差別的だ。アイヌらしい見た目とか、らしくない見た目とか、いったい何なんだ」と非難しました。
すると相手の方から「そんなこと分かってます。人の生き方を勝手にジャッジしないでください」と批判され、ブロックされました。
その後、他のアイヌの方が、その方に助太刀するかのように、私にきつい言葉を浴びせてきました。
「あなたは幸せな方。厳しい現実を知らず、人の心を察することができない。美辞麗句並べてないで現実を改善してください」
その方はこう言い捨てて、私の返事も聴かずブロックしてきました。
アイヌの人たちや和人の支援者の方が見ている中、私は、ひとりの「和人」として公衆の面前に引きずり出され、アイヌの方に問い詰められたのです。
「あなたはアイヌの方に偉そうにお説教しましたね。それは罪ですよ。分かっていますか。あなたには人の気持ちを察する力がないのですか」
そして私は、その冷気と痛みに耐えかねて、大声で泣き叫び、SNSから脱走します。そして、「ここを出ていこう、アイヌに金輪際関わらないようにしよう」と決めるのです。
このような容赦ない冷気をあと何回味わうのでしょうか。マイノリティとの関係を絶ってしまえば、味わうことはありません。しかし、それ自体が「分断」ではないでしょうか。
まあ、私のような異分子を排除した上で、気心の知れた仲間たちと楽しくやりたい、という気持ちも尊重すべきですが。
やはり私は排除されやすい個体なのだと思います。だからこの世から差別がなくなるなんて思えません。
もしかしたら私自身も、「女性」「障害者」「セクマイ」という属性ゆえに、誰かを断頭台に引きずりだして、静かに、しかし容赦なく相手を問い詰めたことがあるかも知れません。心当たりはあります。
多文化共生社会というのは、相当なプレッシャーを自他にかけ続けることなのだと思います。しかし、今さらやめることはできません。
それにしても、マイノリティがマジョリティを断頭台に引きずり出すというのは、差別-被差別の関係を逆転させるということであり、ものすごい現象だと思います。
マジョリティからしたらたまったものではありませんが、その恐怖はマイノリティが常に感じてきたことであり、たまにはマジョリティがそうした恐怖に打ち震えることも必要かもしれません。それがマイノリティなりの復讐であり、反差別行動なのです。
にしても、マイノリティとマジョリティの間には、そういう「暗く冷たい対立」しかありえないのでしょうか。「暖かい交流」もしてみたいのですが。そのための「お祭り」ですよね?