明るい傘 菅沼亜由美のブログ

閲覧注意 NSFW ASD/ADHD/HSP 昔やっていたサイトの続きみたいなものです。意味のないことばかり書いています。

中途半端に知的であることの生きづらさ

小学生の頃の話。

場の雰囲気が読めない。余計なことばかり言う。つらい時に泣き叫ぶことを止められない。いじめられやすく、傷つきやすい。他人に嫌われることを極度に恐れる。

そんな私に、母親はこう言いました。

 

「あんたに知的障害があったらよかったのに。

他人の悪意にも気づかんと、他人に迷惑をかけてることも気にせんと、優しい友達に囲まれて幸せに暮らせるはずや。

 

あんたは障害のない子に見えるから、みんな健常の子としてあんたを見る。

でも、あんたが辛くなってうあーって叫んだら、みんなびっくりして、『なんやこいつ』って嫌いになる。できることとできひんことのギャップが激しいねん。

障害の重い子やったら、周りの態度がはっきり分かれるねん。差別する子と優しくする子にな。

ほんでその子は、優しい子に愛されて幸せになれるんや。

けど、あんたは、障害が軽いから、そうはいかん。普通のときと荒れてるときのギャップが激しいからな。

それに、あんたは、叫ぶことで他人に嫌われてることがわかるんやろ。でも、叫ぶのをやめられへん。これがどんだけ苦しいか!」

 

私は小さいときから何も変わっていません。嫌われやすいスケープゴートです。皆の期待を裏切る「悪い子」です。

 

残念ながら、コミュニティ内での自然淘汰は避けられませんし、自浄のために必要不可欠です。私への排除も、必要だからやっているのです。

しかし、そのせいで私は、「人間は差別をなくせる」「すべての人に人権がある」「いらない人はいない」と思えなくなりました。人権活動家のことも信用できなくなりました。

多数派の論理では、集団が生き残るためには、誰かを絶対に犠牲にしないといけない。そして私がその一人なのです。

「正当な理由があれば差別ではない」と付言しなければ、きりがないですね。人間とはこういう生き物なのだなあ……。

 

そう言えば昔、人権活動圏内で、ある女性が、他の活動家にハラスメントを受けたとして、ある左翼系新聞社を相手取って裁判を起こしました。

私は原告側の女性の味方になりました。

すると、被告側の人たちが私のFBのストーリーズを見に来るようになりました。

私は気持ち悪いと感じたので、被告側の人たちをブロックしました。

私のこの行為を「徒党を組んで人を排除する行為」と言う人もいるかも知れません。確かに私の行為にそういう側面はあるかも知れません。

しかし、原告女性の支援者として、原告にハラスメントを行った加害者に絡まれるのは耐えられません。とても気分が悪かったです。

だから、私が特定のコミュニティから正当な理由で排除されることは、差別でもなんでもなく、正当防衛です。

だから私は、絶対に防壁を越えてはならないのです。自分が犯した罪を重く受け止め、ゾーニングすべきなのです。

敵方にどんな良いことを言っても、どんなアクションを起こしても、「私だから」ダメなのです。言動の内容に関係なく、それは「加害」です。だから排除されます。

排除する側からすれば、それは差別でもいじめでもなく、正当防衛です。

正当防衛を差別呼ばわりする人は、「二次加害者」としてさらに糾弾されます。私は、正当防衛された痛みに耐えて沈黙しないといけないのです。

そして、失った信頼は二度と戻らず、分断は永遠であるということも理解すべきです。

排除は愛に裏打ちされているのだと思います。仲間を愛しているからこそ、私という異分子を排除するのです。

「適切なコミュニケーションができない個体」への差別は、これからもなくならないのかもしれません。

私を差別し周縁化することで平和を保つ社会は、一般人だけでなく、人権活動家の方たちも、進んで建設しているように見えます。

 

もし私が、こういう事を考えたり書いたりすることのできない脳みそだったなら、それなりに幸せだったかも知れません。差別の根深さや世界の行く末なんか気にせずに過ごせそうです。

中途半端に知的なのが一番困ります。

しかも、健常者に擬態するだけの才能もないので、どうしようもありません。

 

一般企業で働く発達障害者よりも、B型事業所で働く知的障害者のほうが、私に近しく思えます。

知的障害者の方が駅のホームで唸っているのを見ると、「あ、仲間だ」と思います。私もよく唸ったり独りごちたりするのです。

一般企業で真面目に働く発達障害者の方は、私をいじめそうで怖いです。

私を執拗に虐める人に限って発達障害者だったりして……。

擬態できない発達障害者を最もいじめ抜くのは擬態できる発達障害者だと、ツイッターで見ました……おお怖い。