元彼のPは、私が起こしたSNSトラブルについて、こんな話をしました。
「ホモ・サピエンスがネアンデルタール人に勝てたのは、ホモ・サピエンスに『嘘をつく能力』があったからだ。『神様はいる』と嘘をつき、それを皆に信じさせることで、大きな集団を作れた。それで、嘘がつけなかったネアンデルタール人を駆逐した。それがホモ・サピエンスの能力だから、それは君にもあるはずなんだ。少なくとも『黙ること』が一番簡単だからやってみな」
ああ、「嘘をつく能力」!「黙る能力」!「耐える能力」!
それさえあれば、私は何も怖くない!
私は能力のなさゆえに、自分で自分を悪人にしているのです。情けないです。
「選んでくれない人」のことは、放っておけばいいのに、いつまでも執着して「危険人物」になってしまう。
アニメ『輪るピングドラム』の陽毬ちゃんだって、自分を選んでくれなかった実の親には執着せず、自分を選んでくれた晶馬くんとの愛を信じたではありませんか。
だから私もそうすべきなのだと思います。自分で自分の価値を貶めるような行為は、私をいつまでも「みそっかす」のまま放置します。
みそっかすでなく、いい人になりたいです。能力さえあれば、私はいい人になれる。
でもこれって、能力主義ですね……もう優生思想と変わりません。でも能力のある人は好かれます。私も好かれたい。能力がほしい。
能力のない自分のことも愛してくれる存在なんて、イマジナリーフレンドとか、ごく一部の超善人しかいません。
でも、それで満足すべきなのでしょう。多くの人に好かれたいなどという欲を起こしてはいけない。
欲望を抑える能力、多少の空腹や傷や苦しみを許容する能力。
それがあれば苦労はありません。
とにかく、文芸評論家Oさんやその取り巻きには、もう近寄ってはならないと思います。たとえ彼らを心配する気持ちがあったとしても、迂闊にコメントしようものなら「攻撃」と解釈され、「正当防衛」されます。
コメント自体は無害な内容であっても、私が発信源であるというだけで「有害」なのです。だから私は、黙らないといけない。自分に嘘をつかないといけない。自分を選んでくれない人を選ぼうとしてはいけない。
片思いというものは、一人で胸のうちに秘めているから美しいのであって、それを表に出してわがままを言い出したら、とたんに醜いストーカーになってしまいます。黙ること、「あの人のことは諦めた」と嘘をつくことが大切かもしれません。
……もはや「作品と作者を分ける」「コメントとコメ主を分ける」という考え方は通用しなくなってきています。
まあ、川端康成が太宰治に芥川賞を取らせなかったのも、太宰の私生活が荒れていたからだそうですから、「作品と作者を分けること」には限界があるのかもしれません。
「ハリー・ポッター」の作者J・K・ローリングだって、トランスヘイターとして糾弾されていますし、私だって「ハリー・ポッター」を読む気が失せてしまいました。
誰だってヘイターの書いた本は読みたくありません。誰だってストーカーのコメントは読みたくありません。そういうものです。作品やコメントそのものが良かったとしても関係ありません。「誰が言うか」「誰が書くか」だって重要なのです。「お前に言われたかねえよ」という怒りも尊重すべきなのです。
でも、「作品と作者を分ける」という考え方が全否定されるなら、私の好きなルー・リードの音楽さえも、「DV男が作った音楽」として全否定されかねません。難しいところです。