明るい傘 菅沼亜由美のブログ

ASD/ADHD/HSP 昔やっていたサイトの続きみたいなものです。

ナチヲタ界隈での被害と加害

(今から書く話は私の中ではまだ終わっていません。現在進行形です。個人的な感想を未整理のまま書きましたのでご寛恕下さい。生きていくうちに思想が変わったらまた加筆したり別記事にまとめたりするかもしれません)

 

私は2021年11月頃から2022年9月までナチヲタ界隈にいました。

私は中2の時、歴史の授業でヒトラーを好きになり、深い罪悪感を抱えていました。

私はいじめられっ子でありながら、自分より重い障害の人を見下したり、他民族の人を怖がったりしていました。

そしていじめられっ子だからこそ、ヒトラーの強そうでかっこいい姿に憧れ、差別心に悩んでいたからこそ、ヒトラーに仲間意識を持ちました。

そしてその恋をいつも自分で責めて苦しんでいました。

 

しかし、2021年11月頃、田野大輔先生のツイッターを見ていたとき、あるナチヲタの方の、ヒトラーシュペーアのBL関係についてのツイートを田野先生がリツイートしていたのを発見しました。

私は本当にびっくりしました。ナチのことをこんなに楽しく語って良いのか、こんなふうな在り方も許されるのか、と目から鱗でした。

そしてその方経由でナチヲタ界隈を知り、彼らが楽しそうに描くヒトラーゲッベルスのイラストによって罪悪感から救われました。

田野先生はナチヲタたちのよき見守り役、相談者なので、尊敬します。

 

ナチヲタ界隈のヲタクたちは、ナチ戦犯同士をカップリングして、BLなどの様々な妄想をするだけでなく、ナチの罪を緻密に調べて批判し、時には戦犯の悪辣さを笑い飛ばしたりします。世間からすれば際どい性癖の持ち主の集団なので、様々な隠語を駆使して隠れています。彼らは推しに推されたら終わりです。干されヲタであることが善きナチヲタの条件です。

ナチヲタ界隈にリーダーは存在しません。リーダーを作らないことで、特定の人に権力が集中するのを防ぎ、みんなが自由にやれています。リーダーがいる組織では、リーダーが潰れたら皆共倒れになってしまいますが、リーダーがいなければそんな事も起きません。香港の反中活動家にもリーダーがいないので、みんな賢いなあと感じます。

 

しかし、私はナチヲタ界隈に居るうちに、人の不幸を消費し、ナチ戦犯を虐めて楽しむナチヲタたちのノリが嫌になってきました。左翼発言をしたら鬱陶しがられ、無視やブロックも日常茶飯事。嫌なら黙って去ればいいのですが、こだわりの強い私はそれができませんでした。

そして戦犯をいじめる傾向が特に強い方とDMで喧嘩してブロックされ、その仕返しとして彼女の限定公開ツイートやDMを自分のブログで晒してしまいました。

同時期に私に晒し行為をされたツイッタラーの方は他にもいらっしゃいますが、ここでは特に印象に残っている「彼女」のことだけを書こうと思います。

 

被害者の方は晒し被害に遭う前の2022年冬頃、鍵アカウントで、「ウクライナ人を殺したロシア兵に同情するな。彼らは自分の意志で殺している。彼らへの同情が歴史否定につながる」という旨のツイートをしていました。私は、「この人は犯罪者の悲しみに同情せず、一方的に叩きのめす人なんだな」と怒りを覚えました。

ロシア兵の加害を許さない姿勢と、ロシア兵の悲しい事情に共感することは矛盾しないはずです。しかし情けをかけるあまり加害をなかったことにするのは良くないことです。

相手の方は「同情のあまり加害のもみ消しをするなよ」と言っているのだろうと今なら推測できますが、これを見た当時の私はツイート内容のあまりの冷たさに震え上がり、「私もこういう厳しい考え方をしなければいけないのか……」とプレッシャーを感じました。

ちなみにウクライナ戦線に送られるロシア兵は大抵貧乏で、金が欲しくてやむなく兵士になって人を殺しているという事情があります。もちろん純粋に殺したくて殺している人もいるでしょうが、そんな人よりも「命令に背いたら殺される……!」と追い詰められて人を殺す人のほうが多いのではないでしょうか。

そして彼女に対してDMで、「非情な発言は控えてください」と述べると、彼女はこう言い返しました。

「私が言ったのは一般論です。あなたに発言を控えろと言われる筋合いはありません。これ以上あなたに迷惑をかけたくないですし、私も自分の権利を守りたいので、ブロックします」

相手の方は、私のDMに深夜に返信して深夜にブロックしています。そうすることで私が何も言えないようにするのです。本当に卑劣ですし、喧嘩がすごくうまいと感じます。自分が勝つためにどんな手段も使う人です。まあたまたま深夜に起きていたからそうしただけかもしれませんが……。

それに、向こうからしたら、「鍵垢での発言にケチを付けるな。うるさい」という訳かもしれません。

 

晒し行為をした当時の私は、彼女に対話を拒否されたという事実に強い衝撃を受けており、彼女の返事や論理を噛み砕いて理解することもできませんでした。

したがって、彼女の論理を理解して整理してプライバシーに配慮して要約して記事にする、なんてことはできなかったのです。情報を巧く加工する余裕がないほど、私は強い打撃を受けていました。

プライバシー侵害記事は、彼女からむりやり口の中に押し込まれた大量の苦い食べ物を消化不良のままブワーッと吐き出した結果だったのです。こういう私の苦しみを彼女は想像したことがあるでしょうか。

彼女からしたら、「ロシア兵に同情するな」というのはウクライナと連帯するための反差別言説なのかもしれません。そして私は「表現の自由を侵害するクレーマー」、「親ロシアのトーンポリシング犯」であり、ブロックはゾーニング、思いやり、あるいはウザ絡みの拒絶なのでしょう。

しかし私は対話を拒否されたように感じて強い憤りを覚えました。それで彼女の鍵ツイートとDMのスクリーンショットをブログで晒したのです。

もちろん相手の方やナチヲタ界隈のプライバシーへの配慮がなかったことは申し訳なく思っています。

スクショを晒す前に相手の方に許可を取る、スクショに写った相手の方の名前やアイコンを隠す、などの技術が不足していました(というか憎しみと悪意故に横着しました)から、結果としてナチヲタ界隈を危機に晒すヲタク差別主義者になってしまいました。「ナチヲタの絵に救われたはずの人間が界隈を裏切った」というわけです。

しかもそれに対して「無言通報」という正当防衛をした彼女に逆ギレしてしまったので、それも良くなかったと思っています。

 

ところで、彼女が私を一時的にブロ解して、私による晒し事件を糾弾するDMを送った際に、彼女は「ロシア兵への同情の是非についてはここでは議論しない」という旨のことを告げました。

なぜならそこを突かれたら自分の論理の穴(ロシア兵にも貧困などの「同情されるべき悲しい事情」があるということ)が見えてしまうからです。自分の意見がパーフェクトではないということを分かっていたから、そこをあえて不問に付したのです。自分が勝つために。本当にずるいし卑怯です。

もし相手の方から、「晒し犯は発達障害だから、多少汚い策略を使ってもバレないぞ、うしししし」と思われていたら、とても腹立たしいですし、悔しいです。障害者だからといって舐められている感じがします。おおいやだ。

いや、しかし、あのときの私はDV元彼に自発的隷従をしていて、自分の意志がない状態で、ブログにも他人の言葉の受け売りばかり載せていました。そんなやつと対話は成り立たないので、彼女の対応は正しいと言えます。

 

しかしとにかく、相手の方の抗議DMを読み、私は震え上がり、問題の記事を削除しました。それを相手の方に報告すると感謝され、しばらく後に再ブロックされました。

彼女からのDMには、「ツイッターとブログ運営会社にあなたを通報した」とも書いてあったので、私はツイッターアカウントとブログ消滅の恐怖に襲われ、発狂し、自分が今までブログに書いた記事を一生懸命コピーして、スマホのドキュメントに貼り付けるという作業を泣きながら延々としていました。

私のこの騒動をそばで見ていた元彼は、相手の方に非常に腹を立てていました。元彼は相手の方を「クソ」「ヤクザ」と呼び、「通報せんでもええやんけ」と腹を立てていました。

そして相手の方の全体公開アカウントに宛てて、「俺の彼女があなたに通報されて狂ったように泣いている。ツイッターとブログが消えるのではないかと怯えている。あなた、通報はやりすぎです」とDMを送りました。しかし相手の方は私に全く同情せず、「何を言うか。通報されるようなことをする奴が悪い」とただただ私を糾弾するだけでした。そして元彼はカンカンに怒りながら、相手の方をブロックしました。

私は相手の方に通報されて当然だと思っていたのですが、元彼は「通報する相手が悪い」と私に言い続けました。私はそれに影響されて、晒し被害者の方にピクシブのメッセージ機能で「通報しないでほしかった」と二次加害文を送りつけてしまい、相手に「通報して何が悪い? あなたが晒し行為をするからでしょ? もうあなたからのメッセージは無視する」と絶縁宣言されました。

それを知った元彼は「メッセージなんか送るなや、『通報して何が悪い?』って言われるに決まってるやん」と私を批判しました。

私は元彼にDVをされていたのですが、この晒し事件においては私に同情して寄り添ってくれてありがたかったです。

それにしても、被害者の方が私に対して、「プライバシーを侵害しない記事の書き方」を教えてくれなかったのは不親切だと感じてしまいます。

本当に再発を防止したいなら、加害者にそういう技術を伝授することが大切だと思います。加害者である私が被害者の方にこんなことを要求するのは傲慢かもしれませんが、相手の方も相手の方で、「悪人を叩きたいだけの人」に見えます。

 

しかし私はそれ以降も晒し事件のことが忘れられませんでした。そして2022年9月、私は相手の方に、ツイッターの別垢から「あなたのことをBDSMナチヲタと呼んでいる方がいますがどう思いますか」という自作自演のマシュマロメッセージを送信したため、その方が抗議声明を出しました。「全年齢向けの場で18禁用語を出すな」「私の性癖を蔑み、弄ぶな」と。

当時の私は彼女を個人的に勝手に「BDSMナチヲタ」と名付けており、彼女が自分をどう定義しているのか気になっていました。また、「BDSMナチヲタ」という言葉には「アンタきつすぎるのとちゃうか」という遠回しの非難と軽蔑も含まれています。

しかし他人の性癖を勝手に定義したり、馬鹿にしたり、プライベートを詮索するのはやめねばなりません。全年齢向けの場で18禁用語を出すのもだめです。

相手の方の抗議文を受け、私は自分のブログに謝罪文を載せ、ツイッターアカウントを消しました。

最近またツイッターアカウントを取り直し、被害者の方にマシュマロメッセージを送り、「あなたに通報されたときに逆ギレしてごめんなさい。私が先にあなたやあなたの界隈を危機に晒したんだから、私も通報されることで危機に晒されて当然。あなたのやったことは正当防衛だった」と謝罪をしたのですが、「クッソどうでもいい」と拒絶されました。

自分が一生懸命解いたテストの答案用紙を破り捨てられたような気分です。

 

相手の方はナチ戦犯を叩きのめして再起不能にして悦に入る方なので、悪への非情さが特に強いと感じます。

彼女は山上徹也さんのファンを冷笑するツイートをしていましたが、同族嫌悪というほかありません。私自身山上さんのファンなので、それを見て傷つきました。

犯罪性愛者同士仲良くすればいいのに、情けないです。ナチヲタでありながらナチヲタを嫌悪した私の轍を踏んでどうするのでしょうか。私に傷つけられた相手もまた、私を傷つけているのです。

しかし私という加害者が被害者である彼女を責めたら二次加害やストーカー行為になりますし、私も容赦なく自傷をしてしまうので、人のことは言えません。

 

まあ彼女は彼女で、戦犯をいじめることによって、心の癒やしを得たり、「正義という秩序」に背く戦犯に対して秩序を与えようとしているのだと思います。

私もそういう気持ちで自傷しますから。

でも「いじめてもリスクの少なそうな相手(戦犯、自分)を選んでいじめる」という行為が本当の救いや癒やしをもたらすとは思えません。誰もいじめずに生きることはできないのでしょうか。

 

ところで、今月初め頃、マシュマロという匿名メッセージアプリを使って、被害者の方に大体こんなメッセージを送りました。

オーレンドルフ(ナチ戦犯の一人)をいじめて遊ぶ〇〇さんを嫌悪していた私が、『自殺うさぎの本』(アンディ・ライリー著、ネオテリック、青山出版社)で爆笑しました。

かわいいうさぎがひたすら自殺しまくるグロマンガで、リョナラー向きです。

それで私は〇〇さんを同族嫌悪していたと気づいて恥ずかしくなりました。

同族嫌悪は自分の全てを愛して受け入れていないから起こります。

私は自分の中のリョナ趣味を抑圧して見ないことにしていたので、リョナ趣味を堂々と開陳する〇〇さんのようなナチヲタを強く嫌って、晒し行為までしました。愚かなことです。

いじめは決して褒められたものではありませんが、する側にとっては一種のストレス発散であり、「癒やし」なのではないでしょうか。

不安定なこの世界や自分の中の葛藤に対処するために、癒やしと安らぎを求めていじめるのではないかと思います。

私は「癒やしとしての自傷」をする自分を強く否定していたので、〇〇さんの「癒やし行為」を否定してしまったのです。

これからはそのような嗜好を安易に否定せず、ちゃんと向き合って考えてみる必要があります。

『癒やしとしての差別』(八木晃介著、批評社)という本を読んでみたら、何らかの発見があるかもしれません。

戦犯をいじめるのは、生身の人間や弱者をいじめないためではありませんか。

〇〇さんの戦犯いじめは一種の生存戦略であり、〇〇さんなりの社会適応なのかもしれないと感じます。

私が自分をいじめるのも、他人をいじめないためです。

 

お読みくださりありがとうございました。

相手の気持ちを想像して共感して寄り添うメッセージが書けたと思います。しかしあんまりやりすぎたらストーカー行為になるので、このメッセージを送ったあとツイッターのアカウントを削除しました。ブロックしてきた相手に絡み続けるのはハラスメントです。

 

このメッセージを読み返して思ったのですが、私は「いじめはいけない」という正義を相手の方に忖度して曲げている印象があります。そうやって忖度した自分が可哀想です。

これ以上彼女に何も送るべきではありません。私は相手の方を恐れて自分の正義を曲げてしまったのですから、そんな関係性の相手とまともなコミュニケーションなんてできるわけがありません。

まあ却ってこういうメッセージを受け取った相手の方はいじめをやめそうな感じもしますし、相手に寄り添うために自分の正義を曲げることもときには必要かもしれません。

晒し行為をした自分を弁護するなら、「特定のコミュニティ(ナチヲタ界隈)で一番孤立した人間(私)が、一番容赦なく仲間を裏切るのだから、周りの者は裏切り者を裁くだけでなく、裏切り者の悲しみや苦しみも想像すべきだ」となります。

聖書は旧約・新約ともに未読ですが、ユダもきっとイエスの教団の中で孤立していたのではないでしょうか。それが裏切りの動機になったのではないかと考えています。

界隈のしきたりを知らない人間、しきたりをきちんと教えてもらえず、自分から教わりにも行けなかった人間。

左翼発言、政治発言を頻繁にし、「同担拒否」を理解できず(今は理解できますが、ナチヲタ界隈にいた頃は全く分かりませんでした)、隠語を使う意味を理解できないがゆえに隠語を使わず、コミュニケーションの齟齬を来して嫌われる人間。

見えないしきたりだらけのムラ社会は、私を排除するように設計されているのです。

そのようなムラ社会の閉鎖的なノリやしきたり、戦犯をいじめて珍獣扱いして遊ぶノリに耐えきれず、私は仕返しのつもりで晒し行為をしたのです。しかし復讐のためなら手段を選ばない残酷さは克服したほうがいいです。まあ相手の方も勝つために手段を選ばない残酷な方ですが……。

とりあえず、私という異分子を排除して平和を保つコミュニティは、非常に排他的で冷たいと思います。

私は大多数の人間とは脳の機能の仕方が違っていて、見ている世界や価値観もだいぶ違います。ちゃんとはっきり言ってもらわないとわからない人間なので、そういう人間が界隈のルールを見て学ぶなんて限界があります。どなたかきちんと教えてくださればよかったのですが、誰もそうしませんでした。

そのようなコミュニティは、養鶏場と同じです。似たような遺伝子の鶏ばかり集まっているので、誰かが鳥インフルエンザにかかったら全滅します。

多文化共生とは、小さなムラ社会をいくつもいくつも作ることなのでしょうか。

はたして私以外のナチヲタの方たちは、ムラ社会の理不尽さを問い、裏切り者の悲しみを考えたことがあるでしょうか。彼らは自分たちが反面教師とすべきコミュニティを自ら模倣しているように感じます。

 

ところで、話は変わりますが、映画『帰ってきたヒトラー』の中で、現代にタイムスリップしたヒトラーが、現代ドイツの若い男性ザヴァツキに対して、「私は人々の心の中にいる」と告げるシーンがあります。

大抵の人は、そのシーンを見て「私とあいつが一緒だなんて……(⁠*⁠_⁠*⁠)」と震え上がるようですが、私は別に震え上がりませんでした。むしろ「そっか、みんな同じなんだ(^^)」と安心したくらいです。

ヒトラーの中に自分を見出すのは、私からしたらごく自然にできることですが、大抵の人からしたらそれはあまりにも忌々しい体験なのかもしれません。

あるナチヲタの方は、同人誌の中で「ナチの魅力は、理解不能ないかれたメンツにある」という旨のことを書いていました。この方はおそらく、世間の大抵の人と同じ感覚を共有しているのでしょう。だからヒトラーナチスを上から見下ろして「理解不能」「いかれてる」と笑えるのです。

私は世間から弾かれた「狸」のような存在ですから、ヒトラーという「狸」を上から見下ろして笑い飛ばす事ができません。彼と自分の間にはさまざまな違いがありますが、「全く別の人間」「悪魔」とは思えません。むしろ「病人」ではないでしょうか。精神疾患もあったようですし。

ヒトラーは虐待被害者で低学歴者という「狸」でありながら「人間」に過剰適応し、本来仲間であるはずのマイノリティ(ユダヤ人、障害者など)を裏切り殺戮したのです。

ナチに自発的隷従をした者たちの中にも、第一次世界大戦後に失業し、ひもじい思いをしながら配給の列に並んでいた人たちがたくさんいたでしょう。そんな中で差別カルト政党に自発的隷従した彼らも、マイノリティを裏切った大罪人です。まあ金持ちのナチ支持者もいましたけれど。

安倍にも、ナチや自民党といった差別カルト政党に自発的隷従した者たちにも、同情はできませんが、ヒトラーにはなぜか同情してしまいます。

とにかく、私は世間一般の人と共有していない価値観が多いようです。

ところで、以前知人が私宛のメッセンジャーで書いていた、「ヒトラーは『やってはいけないことをやってしまった』という点で注目されているのではない」という言葉の意味が分かりました。

彼からすれば、ユダヤ人迫害は「やってはいけないけど欲望を抑えきれずにやってしまったこと」ではなく、「進んでやるべきこと」でした。なので良心の呵責などないのです。

その「良心のなさ」が、人道に対する罪として糾弾されているのだ、と理解しました。

善と信じて巨悪を為すなんて、本当に恐ろしいです。

 

話は変わりますが、ナチヲタ界隈にいた際、ツイッター上でナチヲタの性別アンケートを取ったことがあります。

終結果のスクショが見つからないのが残念ですが、「男」「女」「その他」のうち、どれも1/3ずつぐらいの割合だったはずです。

そして私は、「その他」が多いことに驚き、ツイッターで「その他に入れた奴嘘ついてんじゃないのか」と暴言を吐き、性的少数者を差別しました。

本当に申し訳なく思っています。

 

それはともかく、今の私の中では、晒し行為をした自分を擁護する心と、自分を容赦なく糾弾する心がせめぎ合っています。ある日は擁護が優勢でも、別の日は糾弾が優勢になります。この事件で私の心は確実に狂いました。

この事件に関して私の中で「これが絶対に確かだ」と言える解釈はありません。様々な解釈がせめぎ合って混乱しています。

しかし被害者の方には私に同情する義務などありません。同情はあくまでオプションです。相手の方には生涯に渡って私を拒絶する権利がある、という厳然たる事実に打ちひしがれています。

被害者の方は私のせいで心が壊れたでしょうか。修復不可能な傷を負ったでしょうか。毎日発狂したでしょうか。しかしそれを知る権利、聞き出す権利は私にはありません。私はこのトラウマを未解決のまま引きずるしかないのです。

永遠に未解決。永遠に許されない。永遠に修復不可能。死ぬまで苦しめ……。

 

ここまで私はプライバシー侵害被害者の方のことを一生懸命一生懸命想像して書いてきましたが、被害者の方は同じような熱意を持って私のことを想像しているでしょうか。

私は被害者の方の名前の漢字がトラウマになりましたが、被害者の方はどうでしょうか。なんだか私ばっかり頑張って苦しんで、損しているように感じます。

自分の心を歪めた相手に頑張って寄り添おうとすればするほど、自分が歪んでいくように感じます。これは「エンパシーの搾取(エンパシーとは自分と違う立場の人への思いやりのこと)」ではないかと思うので、もうこれ以上このことを考えるのが嫌になりました。思いやり搾取はもうたくさんです。

しかし、やはりまだまだ考えずにはいられません。この件においては被害者と加害者の分類が極めて難しいです。考え出すときりがなくて疲れます。でもその分様々な教訓を得られるかもしれません。これからも多分断続的に書いていきます。

2024.5.1追記

私は2023年末頃、晒し被害者の方に、「あなたがナチ戦犯をいじめるのは、愛情表現ではないか」と気付き、その旨マシュマロメッセージを送りました。私自身も、全く別の方に強い愛憎を抱いており、ツイッターで彼を罵って愛情表現するようになっていたからです。

相手の方から直接の返事はありませんでしたが、「推しの悪口を摂取したい」と独り言のようにつぶやいていたので、好感触かなと思いました。

しかし、相手の方のツイートを見る限り、彼女はこれからも戦犯いじめをやめないとわかったので、こちらから諦めてブロックしました。

今ではスッキリしています。