「藤波先生はニーチェって読んだことあります?」
十月の肌寒い日、きつい西日の射すがらんどうの図書室で、向かいに座る教え子の山部さとえが訊いてきた。
「え……いや、ないけど……それがどうしたの?」
「私ニーチェ大好きなんですよ!!」
「ああ、そう……」
僕は内心困惑してしまった。山部は僕と話すとき、いつも目を輝かせる。特に今日は格別だ。
しかし僕は、つとめて平静を装って、山部に訊いた。
「ニーチェのどこが好きなの?」
山部は「えーっと」と考えてから、「情熱的なところです!」と答えた。
彼女は僕の前でしかこんな情熱的で親密な態度は見せない。彼女は枯れ木立の中で爛々と燃える火のようだった。
僕は山間部にある県立長嶺高校三年一組の担任だ。クラスの教え子の山部は、僕が担当している国語の授業のときだけは積極的すぎるくらい発言して、皆を困惑させる。
だからかどうかは知らないが、彼女は普段、皆から黴菌扱いされている。
班活動で机をくっつけるときも、他の生徒は山部の机に自分の机を絶対に密着させない。必ず数センチは間隔を空ける。
五月のある日の給食中、僕の耳は「山部と机くっつけたら、山部エキスが伝染るんだぜ」「へぇ〜きも〜」などというへらへらした言葉が生徒の間から漏れたのを聞き逃さなかった。それで声のした方に向かって一喝した。
「お前ら人を黴菌扱いするな!」
教室は水を打ったように静まり返った。
「お前だよお前! 西川卓次郎! 伊藤こより! 俺の机の前に来い! 今すぐ!」
西川は怠そうに立ち上がり、ため息を漏らした。
「なんすか先生、耳良すぎじゃないすか?」
「そんなことはどうでもいいんだよ! 今すぐ来い!」
西川は腕をブラブラさせながら、伊藤は下を向いて黙ったまま、僕の教員机の方に歩いてきた。僕は二人がのろのろ来るのを、肘をついて歯を食いしばり、貧乏ゆすりしながら待っていた。
説教する僕にとっても長く不快な説教が終わる頃には、すでに昼休みになっていた。二人のいじめ加害者は教壇前の引き戸から教室の外へ出て、他の生徒にガーガー愚痴をこぼしている。
うるさいなあと思いながら、ふと教室の後方に目をやると、そこに山部がいた。目は爛々として、見たことのない光を放っていた。
山部は僕に恋をしたのだ。
僕は図書部の共同顧問で、図書室でひたすら本を読み自習や受験勉強をするという、単調だが案外実り多い部活動をしていた。この部には野球部や茶道部など、他の部活に向いていない障害のある生徒も大勢いた。
山部もその一人で、精神科からASDとADHDの診断をもらっていた。高一の進路相談のとき彼女は、卒業後は東京の大学に行きたい、障害者にも配慮のある大学がいい、と言っていた。僕は進路指導の先生と協力して一生懸命彼女の希望に合う大学を探し、ついに一つに絞った。
十月になると、三年生は部活を引退する。高校最後の部活が終わる五分前、山部から突然「藤波先生、部活の後二人で話がしたいんです」と切り出された。
僕は心底びっくりしながら、「え? ああ、いいよ、何の話?」と彼女に答えていた。
三年で部長の江野真希と二年の猿島知世が「山部っち、まさか……」「え、嘘……」などと呟いて、かすかな笑いを漏らしながら、他の生徒らと一緒に図書室を出ていった。僕は笑いはしなかったが、江野や猿島と同じく、すごく驚いていた。
その驚き見開いた目で、山部を見つめた。山部もあの爛々と光る目で、僕を見つめた。
世界の彩度が、一気に増したような気がした。
浅黒い肌に、南アジア人のようなエキゾチックな目鼻立ち、知的で利発そうな、光る目。
このままずっとこうしていたい。未来なんか来なくていい、過去なんかどうでもいい、今だけがあればいい。そう念じていた。
しかし、沈黙は破られた。
「藤波先生はニーチェって読んだことあります?」
「え……」
残念ながらニーチェは名前しか知らない。彼女の知っていることを知らない自分に落胆し、腹が立った。極彩色の世界は少し彩度が落ちてしまったが、それでも山部は、光る目は、そこに存在した。
図書室は僕ら二人きりになった。
僕はどぎまぎしながらも、言葉を口から押し出した。
「いや、ないけど……それがどうしたの?」
間髪入れず山部が言った。
「私ニーチェ大好きなんですよ!!」
僕は圧倒されて、「ああ、そう……」と震えた声しか出せなかった。でも何か話題を広げねばと思って、こう持ちかけた。
「ニーチェのどこが好きなの?」
山部は、「えーっと……」と上を向いてから俯き、数秒間考え込んだ。その数秒間の顔さえも美しく、永遠に焼き付けておきたかった。
そしてついに、山部は答えを出した。
「情熱的なところです!」
僕は山部が可愛くて、思わずニコッとした。すると山部は突然目をきらつかせて「あははははっ!!」と哄笑し始めた。笑いは止まらない。自然に止まるのを待てば良い。
彼女は輝く星の女神のようだった。高笑いする姿さえも美しく光り、愛おしかった。そしてついに彼女はトランス状態に入ったと見え、不意に立ち上がってこんなことを言い出した。
「先生の笑顔が大好き!! 情熱的なところが好き! 一緒に没落しましょう!! ねえ!!」
「え? 没落?」
僕は苦笑しながら言った。「どういう意味だよ没落って」
「超人への道ですよ!!」
「分かんない上手く説明して」
「人間を乗り越え超人になるために必要な道程です!!」
「超人って何?」
「人間を超えた存在です!」
「どうしたら人間を超えられるの?」
「ありのままの欲望に従って楽しく生きることです!」
僕も立ち上がり、山部とともに「フフフ……」と公園の子供のように笑い合った。
「すごいね山部さん。すごいこと言うね――『超人』になるために、僕らは『没落』しなければならないのか」
「そうです!『超人』は『人間』の進化形なんです!」
山部の爛々と光る目を見ていると、僕もその気になってくる。そして、ふと、ある考えが脳裏をかすめたが、それをすぐ口に出すのは野暮と思われた。答えは山部の口から聴きたかった。それでこう訊いてみた。
「その没落って……例えば何?」
山部は僕から目をそらし、どぎまぎしだした。その姿も幼気で愛おしかった。山部は「ええっと、あの……先生と……あの……」と答えに詰まっていたが、ついに意を決したように、僕の胸に矢のように直截な言葉を放った。
「先生とセックスして心中したいです!!」
「ええっ!!」
セックス発言は予想通りとはいえ、「心中」という言葉に、僕はすっかり困惑してしまった。まさか生徒とセックスして、それに心中だなんて。この子は一体何を考えているんだ。
「私、大学行きたいって散々言ってたくせに、十八歳の誕生日に死のうと思ってたんです、ずーっと。でも処女のまま死ぬのは嫌だから、大好きな藤波先生と一緒にセックスして、そんで締め殺してもらおうかなって思って――ねえ、一緒に没落しましょう! 私、こんないじめばっかしの世界で生きるの嫌だから、絶頂のまま死にたいんです!」
「だめだ!」
思わず大きな声が出た。聴いていて胸が苦しくなったのだ。
「え、なんで……」
僕は震える声で、しかししっかりと、自分の思いを伝えた。
「君には生きていてほしい。だって僕の大切な子だから!」
そして彼女の顔を両手で引き寄せ、互いの唇をぴったり合わせた。
僕は貪るように山部の唇を味わった。甘い。おいしい。至福だ。山部も陶然とした様子で、されるに任せていた。
唇を離すと、彼女は、涙を溜めた目でこちらを見つめた。本当に美しい、宝石のような目だった。そして彼女は呟いた。
「すみません、やっぱり、思い直しました――セックスは……流石にね……」
そして重い鞄を背負い、しくしく泣きながら引き戸の方へ歩いていく。
「バイバイ! また来るんだよ!」
僕は彼女の後ろ姿に、懸命にエールを送った。彼女は確かに、「はい」と言った。そして、薄暮の図書室を後にした。
この日のことは、一生忘れられないだろう。
なぜならこの日以来、山部の爛々とした目を見ることはついぞなかったからだ。
山部は僕を裏切ったのだ。
警察の話によると、あの後山部は、高校の裏山に入り、大木にロープを括り付け、縊れて死んでいたという。
そして僕は、あの日の美しい情事を誰かに見られていたようだ。同僚から校長に至るまであらゆる教師から、女子生徒への接吻の罪を厳しく咎められ、定年まであと10年足らずで懲戒免職となった。
それに加えて、テレビやネットなどのニュースで自分のやったことをこれでもかと胸に突き付けられたときには、身体全体が張り裂けそうになり、狂わんばかりに泣き叫んだ。ヤフーニュースのコメント欄やツイッターやトゥギャッターなど、見る気もしない。どんなひどい言葉でも書かれているだろう。
今は実家の老いた父に促され、家業の林業を手伝っている。森や植物や生き物のことを先輩から教わり、専門的な講習を受け、猛勉強して大型トラックやパワーショベル(ユンボ)などの免許を取った。だけど今もまだまだ勉強中だ。
僕は父の跡を継がねばならない。だけど正直今のままではやっていけない。ただでさえ人手不足だが、樵なら何人でも、喉から手が出るくらい欲しい。特に若く力溢れる人がいい。でもどれだけ募集をかけても、思うように人が集まらない。
山で木を伐る父の背中を見て育ったとはいえ、東京の大学を卒業した22歳からずっと高校教師をしていたので、林業をやっていると初めて知ることがたくさんある。
山に生えている木の種類から伐り方、蛭避けの方法や噛まれたときの対処法、トラックの運転のコツまで、父から熱心な指導を受けた。それほど父は焦っているのだ。
もちろん怪我や失敗は多い。慣れてないから当たり前とはいえ、父や同僚や取引先に怒られるのは泣くほど辛い。
その辛さに加えて、山部を死なせ、山部にかまけて他の生徒や同僚を裏切った罪悪感、懲戒免職前後に一気にぶっかけられた容赦ない言葉のトラウマで、泣けて泣けて、死にたくなるときもある。
でも、山部への償い、鎮魂の使命を感じて、なんとか頑張ってこの世に踏ん張っている。でも、山部の死んだ森に入って作業するときは、涙をこらえるために、山部に「ごめんね」と心のなかで詫び、彼女のことを頭から一時的に消す。そうでもしないと、やってられない。
あの事件の後、アマゾンでニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』の解説書を買った。山部の心に少しでも近づくためだ。
少しでも暇ができるたびに、解説書を読んでいると、序盤の方に「世界の向こう側を説く者たち」に対する痛烈な批判を見つけた。そしてそこから、「来世に希望を託して死んだりなどするな。現世を楽しく生きよ」との思想を僕は読み取った。
山部は学校でくだらないいじめをずっと受け続けて、現世に希望を持てなかったのではないだろうか。そんな学校、そんな社会を作り出した犯人の中には、僕も含まれているのではないのか。
だからこそ、父の林業を手伝いながら、今はインスタグラムで、匿名で細々と雑多に語っている。山の向こう側の海辺にある原発が再稼働したこと、もし原発事故が起これば自分たちの森も汚染されること、森で見つけた貴重なギフチョウの写真、人手不足の激しい林業の現状、林業従事者の募集、この国の独裁政権の問題――。
山部を死なせてしまったことへの贖罪、というか、少しでもこの社会が、山部のような繊細な人間にとって「生きていたい」「希望を託したい」と言えるものになるように、今日も投稿している。
こうして地道にインスタを続けてフォロワーをどんどん獲得しているおかげか、いつの間にか30代の同僚の伊沢芳樹が僕に「インスタ係」というあだ名をつけた。
伊沢も他の同僚も、僕が失敗したり怒られたりした後は必ず慰めてくれるし、樵として生きるための様々な知恵を教えてくれる。そして休みの日は一緒に地元の反原発デモに参加して、「僕らの森を放射能で汚染するな!」と訴えたり、デモ行進したりする。気のいい仲間たちだ。
教師から樵になるということ、独裁者に楯突くということは、人によったら「没落」に見えるかもしれない。でもその「没落」こそ、人を成長させ、社会を変え、未来を生きる人々――ニーチェは超人と呼ぶだろうか――のために尽くすことにつながるのだ。
今の僕さえも、あの日の山部には敵わないかもしれないな。今山部は、どこからどんな目で僕を見ているのだろう。
その答えはすぐにつかった。
僕の中だ。
あの爛々と光る目が、内から僕を見つめてくれている限り、僕はどんな辛いことも乗り越えていけるんだ。どんな邪心にも負けずに生きられるんだ。
ありがとう、山部。大好きだよ。これからも生きていこうな。
そうして僕は、今日も山へ行く。