明るい傘 菅沼亜由美のブログ

閲覧注意 NSFW ASD/ADHD/HSP 昔やっていたサイトの続きみたいなものです。意味のないことばかり書いています。

加害性のあるマイノリティはどう生きるか

コミュ力とは、余計なことを言わない力、相手の話を黙って聞く力、自分の立場や相手との関係性をわきまえながら話す力である。

SNSにおいては、コミュ力のある人が善人で、コミュ力のない人が悪人。コミュ障=悪人・欠陥のある人とみなされる。

だからコミュ力重視の社会では「発達障害」と診断される人が増える。

診断名はスティグマになってその人を苦しめる。診断名がダビデの星(「いじめてもいい人」の指標)や、おでこの666(ヤバい奴の印)みたいになっている。

私のような人間に対して「大声で叫ぶ人は怖いから会いたくない」と明言し、私を避ける人の気持ちも尊重すべきだが、差別されるってこういうことなんだな〜と思う。

こういう扱いを受けるということが、障害を持って生きるということなんだな、と落胆する。

避けられたり殴られたりすることを、当たり前のこととして受け入れるべきなのか?

加害性のあるマイノリティは、救済されにくい。だからある程度のあきらめや、過酷な扱いへの慣れは必要かもしれない。少ない量の幸せで満足する感性も。

社会進出=殴られに行くこと、なのか?

ありのままでいるだけで人を傷つける私は、愛されないし助けてもらえない。歩くのが下手すぎていろいろなところに体をぶつけてしまう、はた迷惑な通行人だ。

だから、生きていくうちに、「人権というものは善人のためだけにある。私のためではない。世の中は永遠に不平等だ。私は永遠に救われない」というあきらめを抱いてしまう。終わらない苦痛を甘受し、おとなしくしているしかないのだ。

もし私が男だったら、26歳になる前に殺されていただろう。なぜなら男はマジョリティで、同情されないからだ。私は女だから見逃してもらっているのだ。感謝しなければ。

人権とは人類の99%のものだ。残り1%である私には適用されない。救済の見込みがある人だけが救済される。私は永遠に救われない。

私を救える神がいるなら教えてほしい。そんなのいるのかわからないけど(笑)

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今まで生きてきた中で、出会いたくなかった人はしこたまいる。この人たちと出会わなかったら、もっとお互い平和に暮らせたはずなのに、なんで出会ってしまったんだ、と悔やんでしまう。

でもそれは、「生まれたくなかった」という悔いと同じくらいどうしようもないことである。私たちは生まれてしまったし、出会ってしまった。過去に起きたことは変えられない。今ある現実を否応なしに受け入れるしかないのだ。

SNSは、そういう「出会いたくないのに出会ってしまう場」でもあるから、本当に皆しんどい思いをしていると思う。私も他の人にそういうつらい思いをさせているに違いない。

私のせいで不可逆的な傷を負い、消えない憎しみを植え付けられた人には申し訳なく思う。私が死んだところで過去は変わらないし、その傷は治らない。その人はずっとつらさを背負って生きていくしかないのだ。その人が障害者ヘイターにならない保証はどこにもない。