ブロックってのは相手と殺し合わないための思いやりなんだから、感謝とお詫びだけしてればいいんだよ。文句言うな。差別でも排除でもない。
ブロックとは、「あんたのことは殺さないけど、そばにいてほしくない」という意思表示。
まあ、先住民や障害者相手にそれを言ったら差別や排除にはなりうるけどな。それを言葉に出さずにやんわり示すのがブロック機能なのだ。
けどまあ、いざブロックされたら、自分の手足にに冷たい刃物をしこたまぶっ刺された気持ちになる。おでこに「いらない子」の烙印を押された気分になる。
ブロックは思いやりなのか、排除なのか。両方の面があると思う。
SNSで揉まれていると、社会そのものがトーナメント戦、デスゲームに思えてくる。殺される前に殺す、排除される前に排除する、そればっかり。
今度は誰が殺されるのか、殺されないために何ができるか、今度は誰を殺してやろうか、そういう事ばかり考えて、みんな生きている。
ただでさえ自分の生命が脅かされているのだから、他人に思いやりをかけること自体がリスクとなる。「敵を愛する」なんて以ての外だ。
私たちが望んだのは、こういう社会だったのか? 殺し合いしか知らないから、そうしているだけではないのか?
「殺し合い・奪い合いそのものを考えつかない社会」を想像したり、知ってみることはできるのではないか? まあそうするだけの余裕すら、資本家に奪われているのだろうけど。
今この時代に、スマホやパソコンを持ち、SNSのアカウントを持っているということ自体が、デスゲームに参加しているということなのだ。
ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』を完読したい。